2011年6月アーカイブ

 五月の連休は被災地も混雑するだろうという事で5月9日の連休明けから3日間、友人の柏木君の助けを頼りに被災地に向かいました。勿論、行く前には親戚や友人、知人、さらに毎日の報道から、かなりの情報を余力のなくなった頭の隅にインプットしたつもりでした。

 確かに現地現場に行ってみると、ふむふむ、そうかなあー。そうだよなあー。という予想の範囲なのです。しかし、その範囲そのものを極度に過酷な所に設定しているものだから、ついつい生意気にも、ふむふむなどと評論家みたいに冷静さを装ってしまうわけなのですが、昔から「百聞一見にしかず」と言われるように現場に立ったリアル感は、ただただ無常というより他はありません。口先をとがらせたまま、口を閉じます。言葉の無意味さを感じます。そんなもの必要ありません。黙れ!! 黙れ!!  黙って飲み込め!!

 被災の街中は、すっかりゴーストタウンと化し、人影もなく、かっての賑わいの商店街も威勢のいい船員達や女達の嬌声で溢れていた飲み屋街も一階部分は、ほとんど何も無くて薄い破けたベニヤが憐れに宙ぶらりん。こんなところに魂を入れ込んだ時もあったよなあ。あの微笑みに、もしや、もしやと通ったもんだよなあー。あの娘は?あのババアは?どうしてんだべ。感傷に浸る間もなく、悲哀とため息が体中を埋め尽くします。

 つい先日まで日々の営みに嬉々としていた人々の姿や温もりが想像されて,憐れを感じずにはおれません。あの一瞬の刻みを境にあらゆるものを変えてしまった自然の力、いやいやちょっとしたいたずらか試しかも知れない。その気まぐれさはいかにも『何もしなかったよ。』とおどけて見せる子供の悪戯のむくさのように、にくめないけれど、これ以上はない悲惨と虚脱を伴うそのものでした。

 私が5,6年働いていた水産工場のある気仙沼鹿折地区、津波で流されたあげく、漁船や油タンクの炎上に見舞われ、全くの壊滅状態、さらにその後、働いていた漁船、漁業の会社のあった魚市場前から川口町一帯はガレキの山だけが延々と続き、その先が見えもしないし、入ることもできない状態。そんな中に立つと、こんな状況の中でよくも多くの人々が生き延びたもんだという驚きと敬意を感じます。すばらしい。本当にすばらしい。

 雨の予報だった天気も好転したけれど、魚くずや海藻や潮をたっぷり吸い込んだガレキが放つ異様な匂いは街中をただよい、さまよい流れて『決して忘れんじゃねいぞ!!』と一人ひとりにだめ押しの忠告をしてくれているようです。

 私の生家にも立ち寄りました。祖父が昭和6年に建て、父が若干の手を加えましたが、庭や茶室も本格的に整えた少しは誇るべき家でした。30年ほど前の倒産を機に他人の手に渡りましたが、その後も昔のたたずまいそのままに維持されておりました。しかし、勿論、流されました。母屋も茶室も蔵も納屋もその他の建物も全て海のモクズとなってしまいました。残っているのは、80年前の礎石とカムイコタンから運んできたという1個何十トンという庭石の数々だけです。祖父や父が、その時代その時代の労苦の中で築き上げた華美ではないけれど、それなりにふさわしい賞賛と敬意の目で見られた家だったのに。ーー。??。

 へらへらと落つる涙は・・・・・・。父、母の・・・・・・・・・。                    まあ、そうでもあれば、 状況的にはふさわしいものでしょうけれど、なかなかそうはいかないこの愚息。『盛者必衰の理をあらわす』『諸行無常の光りあり』『いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむ』 そんな平家物語的な無常感のみが自分と枯れたさつきの残がいの間をただようばかり。

                      

 

 

 

 

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