気仙沼の大津波の歴史

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 私は、小さい頃から、祖父や父から明治29年と昭和8年の大津波の様子を何十回となく聞いて育ちました。明治29年の時には祖父は12歳、夜中にドーンという地響きとともに津波が押し寄せ、気が付いたら屋根裏まで持っていかれて、もろとも沖に流されたそうで、ようやく屋根上に這い上がって助けられたと聞いております。親、兄弟、祖父母等、一家6人を亡くしました。

 昭和8年の時には、縁側まで水が上がり、母屋は無事でしたが、出荷直前の鰹節何十樽を蔵ごと流されたと聞いております。チリ地震の津波の時は、私は中学生でした。海まで100メートル程にある家でしたから津波が押し寄せるのを倉庫の屋根に上がって見てましたし、波が引いた時には岸まで行って湾の底ががっぽり見えて恐ろしかったのを覚えています。岸の石垣からはニョロニョロニョロニョロ無数のウナギが這い出てきたのを獲りたいし、次の波も怖いしと、じれったい思いで眺めていたのを昨日のように鮮明に思い出します。

 しかし、今回は違います。明らかに段違いに強烈です。昼間の出来事であったことがせめてものラッキーでした。たとえば、私の生家は倒産後他人の手に渡りましたが、とっても立派な人たちでアワビの蓄養業を営んでおります。先日、やっと連絡が取れました。出荷直前のアワビ1億5千万円相当をいかだもろとも流され、私の祖父が昭和8年に建てた生家も屋敷も倉庫も蔵もすべて流され、海のもくずとなってしまったと、淡々と話されておりました。

 驚きと興奮から覚めて、いよいよ現実仁向き始めた時、くやしさと悲しみとつらさが心身のいたるところを傷みつける事でしょう。がしかし、どうかそれらをやんわりと受け止め、静かに一歩一歩歩み始めて欲しく願っております。私は37歳の時、私も勤めていた実家の倒産に遭遇しました。当時、漁業界での倒産規模では不名誉ながら史上2番目、32億円超でした。当然、一家離散になり、私は横浜に移り住み、ラーメン工場に勤めたり、ラーメン店(雷文)を開いたり、そして今現在のかに店ペスカドールに至っております。

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このページは、pescadorが2011年5月 4日 00:47に書いたブログ記事です。

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