2011年5月アーカイブ

無からの旅立ち

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 今回の地震・津波・火事・原発の被災者の状況と私ごとき倒産の状況とは比較すること自体が馬鹿げているというかもしれませんが、実際は似ている面も多くあると思うのです。それは、突然投げ出されたことには変わりありませんから。

 私はその時どう思ったかと問われれば、結構わくわくして嬉しかったのを覚えています。不見識だとか、無責任だとか、言う方も多いでしょうが、実際そう思ったのです。それは何故かと思うに、多分、いろいろこまごました事、例えば仕事の事、家の事、家族の事、友人の事、親族の事、地位や名声の事、さらに今まで自分が負ってきた事、背負い続けているもの。

 そのようなありとあらゆる事や物や者から解き放たれた時、あなただったらどうでしょう? 私には一陣の清風が突き抜けた清涼感と明日の自分への挑戦と期待、そんな高揚感の方が失ったものよりも大きかったように思います。勿論、皆さんと違って、私はその時点では、喪失したい物の方が多かったという事なのでしょうか?

 あの被災地の氷点下の寒さの中で、あの耐乏生活を乗り切った東北の人。尊敬して止みません。凍土からも芽を出し、花を咲かせ、緑薫る季節が訪れるでしょう。この天災は、あなたたちの罪ではありません。今まで通りの勇気と真摯さ、忍耐と寛容、そして大いなる楽天性を発揮して新たな自分の発見に旅立ちましょう。応援します。

 私は、小さい頃から、祖父や父から明治29年と昭和8年の大津波の様子を何十回となく聞いて育ちました。明治29年の時には祖父は12歳、夜中にドーンという地響きとともに津波が押し寄せ、気が付いたら屋根裏まで持っていかれて、もろとも沖に流されたそうで、ようやく屋根上に這い上がって助けられたと聞いております。親、兄弟、祖父母等、一家6人を亡くしました。

 昭和8年の時には、縁側まで水が上がり、母屋は無事でしたが、出荷直前の鰹節何十樽を蔵ごと流されたと聞いております。チリ地震の津波の時は、私は中学生でした。海まで100メートル程にある家でしたから津波が押し寄せるのを倉庫の屋根に上がって見てましたし、波が引いた時には岸まで行って湾の底ががっぽり見えて恐ろしかったのを覚えています。岸の石垣からはニョロニョロニョロニョロ無数のウナギが這い出てきたのを獲りたいし、次の波も怖いしと、じれったい思いで眺めていたのを昨日のように鮮明に思い出します。

 しかし、今回は違います。明らかに段違いに強烈です。昼間の出来事であったことがせめてものラッキーでした。たとえば、私の生家は倒産後他人の手に渡りましたが、とっても立派な人たちでアワビの蓄養業を営んでおります。先日、やっと連絡が取れました。出荷直前のアワビ1億5千万円相当をいかだもろとも流され、私の祖父が昭和8年に建てた生家も屋敷も倉庫も蔵もすべて流され、海のもくずとなってしまったと、淡々と話されておりました。

 驚きと興奮から覚めて、いよいよ現実仁向き始めた時、くやしさと悲しみとつらさが心身のいたるところを傷みつける事でしょう。がしかし、どうかそれらをやんわりと受け止め、静かに一歩一歩歩み始めて欲しく願っております。私は37歳の時、私も勤めていた実家の倒産に遭遇しました。当時、漁業界での倒産規模では不名誉ながら史上2番目、32億円超でした。当然、一家離散になり、私は横浜に移り住み、ラーメン工場に勤めたり、ラーメン店(雷文)を開いたり、そして今現在のかに店ペスカドールに至っております。

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