今回は気仙沼だけではなく、陸前高田市や南三陸町にも足を延ばしました。当店にカニを送り続けていた友人がカニを獲っていた船員が小学校、中学校の同級生でしたが、今回の津波で家族を失い、家や船などを流されたと聞いていたからです。
  テレビや新聞で見る限りこの二つの町は最も被害が大きく見えましたから、とにかく、訪ねて見舞おうと思ってました。なんとかなんとかガレキの間を抜け迂回路を回って目的を果たすことができてホットしております。これらの町の中に立つと不思議な気持ちになります。隅々までは知らないけれど、大体は分かっている町のあり様ががらりと変わってしまって何から思い出して良いのか分かりません。何があったっけ?あれは?それは?  ははあ......。あれかあ!!......。これかあ?......。ええっ?......。そんなあ......!!
 古来、多くの開拓使というのがあって、例えば北海道の屯田兵、アメリカの開拓史、ブラジルをはじめとする中南米への農業移民などなど沢山あるけれど、彼らの第一歩というものは、今こんな所に立っている気分に似たようなものではなかったか? と思ったりします。
 着いて案内された所がこのような景色とは違うけれど、原生林の真っ只中であったり、栄養分のまるで無さそうな不毛の地であったりして、その時の思いは武者ぶるいどころではなく、暗たんたる思いや不安、焦燥、後悔などなど砂かむ思いであったに違いない。この両町の惨状を前にして、さあ――どうしよう、どうするか?開拓せねば......ならんかのう......? 何とも寂寞たる思いであります。これらの町々の多くの報告・分析・問題点などなどは他の多くの方々にお任せして、私は少々脱線しようと思います。
 実は、冷凍魚の話です。今回役に立たなくて残念なことでした。次回に述べることは、この正月過ぎにはブログ用にまとめてあったのですが、載せずじまいになった内容です。(つづく)


 6月12日(日)店の仕事を終えてから、夜10時過ぎに友人市原君の運転に安心を決め込んで、再び気仙沼に向かいました。先回、柏木君と行ったときは、早朝に出発しましたが、結局2人とも前の晩は眠れなかったという反省から、今回は夜の出立なのでした。

 早朝の朝もやの中に気仙沼のたたずまいを見たいと思いました。今回は先回入れなかった商港岸壁の先まで入ることが出来ました。人も車もほとんど動いていない早朝とはいえ、『時が止まったかあー?』と思えるほど、手つかずに近い状態のガレキと破壊されたまんまの工場群が広がっているばかりです。『あーああ・・・!! これじゃ無理じゃねいの? 何もかも!!』」

 6月中には鰹船を入港させて再出発の起点にしたいと関係者は意気込んでいるようだけれど、気持ちはわかるけど大丈夫かなあ――?  地盤沈下した岸壁は海水がちゃぷちゃぷゴーゴー言っているし、後背地の水産加工場群はガレキのまんまだし、まあ、あれだね。鰹やサンマの生出荷は少しづつ整っていくだろうけど、水産加工や冷凍加工は無理だね、しばらくは。

 これら経営者たちは、一体どう考えているんだろう? 再び、やる気なんだろうか? お金もかかるし、時間もかかるし、従業員達は? 資金繰りは? みんな『頑張ってえ―!! 応援しよう―!!』なんて言われたり、ちよっとした熱きものに触れると『よっしゃあ―!!やるぞ―!! やったるぞ―!!』などと自分の使命か、天命のように思えて、ついつい燃えたまま走り出すかっこ良さを選んでしまうものなんでけれども、いざとなると親戚も友人も冷たくにべもない。あんなに同情的だった関係機関や銀行も『それとこれは別ですよ』なんて、らちがあかないことになる。

 大半の水産業者はそのうちボチボチ始めるだろうけれども、中小はそうはいかない。苦難の選択を迫られる。余程の特殊な技術や製品でもない限り、大変なのだ。『天は自ら助くる者を助すく』という。天も周りも自ら頑張ろうとする人にしか手は差し延べないのだ。似たようなことを言って辞任した松本大臣もいたが、いずれにしろ、こんな時、国民は国や県やお上の足りないことをあれこれと言って非難に明け暮れするけれど、古来、お上というのはそんなもんだ。

 いくばくかの援助や補助があったならば天から降ってわいた授かりもの程度に思って、やはり、自らを制し、律し、拓し、生きねばならぬのだ。他人のおだてや口車に乗って自分を過剰評価しては身の破滅だ。臥薪嘗胆も必要だ。海だって、町だって落ち着くまでには3年や5年はかかるだろう。町の産業も人々の住まい方もずいぶんと違ってくるだろう。今あわてて必死になって復旧、復興に全力を尽くす必要はないように思う。得意なこと、好きなことに磨きをかけながら、ケ・セラセラ的な臥薪嘗胆がいいかもしれない。(つづく)

 

 五月の連休は被災地も混雑するだろうという事で5月9日の連休明けから3日間、友人の柏木君の助けを頼りに被災地に向かいました。勿論、行く前には親戚や友人、知人、さらに毎日の報道から、かなりの情報を余力のなくなった頭の隅にインプットしたつもりでした。

 確かに現地現場に行ってみると、ふむふむ、そうかなあー。そうだよなあー。という予想の範囲なのです。しかし、その範囲そのものを極度に過酷な所に設定しているものだから、ついつい生意気にも、ふむふむなどと評論家みたいに冷静さを装ってしまうわけなのですが、昔から「百聞一見にしかず」と言われるように現場に立ったリアル感は、ただただ無常というより他はありません。口先をとがらせたまま、口を閉じます。言葉の無意味さを感じます。そんなもの必要ありません。黙れ!! 黙れ!!  黙って飲み込め!!

 被災の街中は、すっかりゴーストタウンと化し、人影もなく、かっての賑わいの商店街も威勢のいい船員達や女達の嬌声で溢れていた飲み屋街も一階部分は、ほとんど何も無くて薄い破けたベニヤが憐れに宙ぶらりん。こんなところに魂を入れ込んだ時もあったよなあ。あの微笑みに、もしや、もしやと通ったもんだよなあー。あの娘は?あのババアは?どうしてんだべ。感傷に浸る間もなく、悲哀とため息が体中を埋め尽くします。

 つい先日まで日々の営みに嬉々としていた人々の姿や温もりが想像されて,憐れを感じずにはおれません。あの一瞬の刻みを境にあらゆるものを変えてしまった自然の力、いやいやちょっとしたいたずらか試しかも知れない。その気まぐれさはいかにも『何もしなかったよ。』とおどけて見せる子供の悪戯のむくさのように、にくめないけれど、これ以上はない悲惨と虚脱を伴うそのものでした。

 私が5,6年働いていた水産工場のある気仙沼鹿折地区、津波で流されたあげく、漁船や油タンクの炎上に見舞われ、全くの壊滅状態、さらにその後、働いていた漁船、漁業の会社のあった魚市場前から川口町一帯はガレキの山だけが延々と続き、その先が見えもしないし、入ることもできない状態。そんな中に立つと、こんな状況の中でよくも多くの人々が生き延びたもんだという驚きと敬意を感じます。すばらしい。本当にすばらしい。

 雨の予報だった天気も好転したけれど、魚くずや海藻や潮をたっぷり吸い込んだガレキが放つ異様な匂いは街中をただよい、さまよい流れて『決して忘れんじゃねいぞ!!』と一人ひとりにだめ押しの忠告をしてくれているようです。

 私の生家にも立ち寄りました。祖父が昭和6年に建て、父が若干の手を加えましたが、庭や茶室も本格的に整えた少しは誇るべき家でした。30年ほど前の倒産を機に他人の手に渡りましたが、その後も昔のたたずまいそのままに維持されておりました。しかし、勿論、流されました。母屋も茶室も蔵も納屋もその他の建物も全て海のモクズとなってしまいました。残っているのは、80年前の礎石とカムイコタンから運んできたという1個何十トンという庭石の数々だけです。祖父や父が、その時代その時代の労苦の中で築き上げた華美ではないけれど、それなりにふさわしい賞賛と敬意の目で見られた家だったのに。ーー。??。

 へらへらと落つる涙は・・・・・・。父、母の・・・・・・・・・。                    まあ、そうでもあれば、 状況的にはふさわしいものでしょうけれど、なかなかそうはいかないこの愚息。『盛者必衰の理をあらわす』『諸行無常の光りあり』『いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむ』 そんな平家物語的な無常感のみが自分と枯れたさつきの残がいの間をただようばかり。

                      

 

 

 

 

無からの旅立ち

| コメント(0) | トラックバック(0)

 今回の地震・津波・火事・原発の被災者の状況と私ごとき倒産の状況とは比較すること自体が馬鹿げているというかもしれませんが、実際は似ている面も多くあると思うのです。それは、突然投げ出されたことには変わりありませんから。

 私はその時どう思ったかと問われれば、結構わくわくして嬉しかったのを覚えています。不見識だとか、無責任だとか、言う方も多いでしょうが、実際そう思ったのです。それは何故かと思うに、多分、いろいろこまごました事、例えば仕事の事、家の事、家族の事、友人の事、親族の事、地位や名声の事、さらに今まで自分が負ってきた事、背負い続けているもの。

 そのようなありとあらゆる事や物や者から解き放たれた時、あなただったらどうでしょう? 私には一陣の清風が突き抜けた清涼感と明日の自分への挑戦と期待、そんな高揚感の方が失ったものよりも大きかったように思います。勿論、皆さんと違って、私はその時点では、喪失したい物の方が多かったという事なのでしょうか?

 あの被災地の氷点下の寒さの中で、あの耐乏生活を乗り切った東北の人。尊敬して止みません。凍土からも芽を出し、花を咲かせ、緑薫る季節が訪れるでしょう。この天災は、あなたたちの罪ではありません。今まで通りの勇気と真摯さ、忍耐と寛容、そして大いなる楽天性を発揮して新たな自分の発見に旅立ちましょう。応援します。

 私は、小さい頃から、祖父や父から明治29年と昭和8年の大津波の様子を何十回となく聞いて育ちました。明治29年の時には祖父は12歳、夜中にドーンという地響きとともに津波が押し寄せ、気が付いたら屋根裏まで持っていかれて、もろとも沖に流されたそうで、ようやく屋根上に這い上がって助けられたと聞いております。親、兄弟、祖父母等、一家6人を亡くしました。

 昭和8年の時には、縁側まで水が上がり、母屋は無事でしたが、出荷直前の鰹節何十樽を蔵ごと流されたと聞いております。チリ地震の津波の時は、私は中学生でした。海まで100メートル程にある家でしたから津波が押し寄せるのを倉庫の屋根に上がって見てましたし、波が引いた時には岸まで行って湾の底ががっぽり見えて恐ろしかったのを覚えています。岸の石垣からはニョロニョロニョロニョロ無数のウナギが這い出てきたのを獲りたいし、次の波も怖いしと、じれったい思いで眺めていたのを昨日のように鮮明に思い出します。

 しかし、今回は違います。明らかに段違いに強烈です。昼間の出来事であったことがせめてものラッキーでした。たとえば、私の生家は倒産後他人の手に渡りましたが、とっても立派な人たちでアワビの蓄養業を営んでおります。先日、やっと連絡が取れました。出荷直前のアワビ1億5千万円相当をいかだもろとも流され、私の祖父が昭和8年に建てた生家も屋敷も倉庫も蔵もすべて流され、海のもくずとなってしまったと、淡々と話されておりました。

 驚きと興奮から覚めて、いよいよ現実仁向き始めた時、くやしさと悲しみとつらさが心身のいたるところを傷みつける事でしょう。がしかし、どうかそれらをやんわりと受け止め、静かに一歩一歩歩み始めて欲しく願っております。私は37歳の時、私も勤めていた実家の倒産に遭遇しました。当時、漁業界での倒産規模では不名誉ながら史上2番目、32億円超でした。当然、一家離散になり、私は横浜に移り住み、ラーメン工場に勤めたり、ラーメン店(雷文)を開いたり、そして今現在のかに店ペスカドールに至っております。

 私は宮城県気仙沼市唐桑町の出身です。次第に明らかになっていく被災の様子はとくとテレビ等でご存じのとおりです。私の親戚・友人・知人の数多くが亡くなり、家を流され、火事に巻き込まれ、暗たんたる思いで今なお避難所を転々としているといいます。電話をかけようにも携帯の番号までは知らないので、人づてに聞いた連絡先へ電話をしようとしましたが、その時には、すでに自分が泣いている始末で声になりません。とても無理だ、許せ!!と勝手に自分を許し、しばらく収まるのを待ってかけてみると、いやあ、みんなしっかりしている、落ち着いている、頑張っている。こちらがおたおたしているのが恥ずかしい。反対に勇気づけられました。

そんな日々ですけれど、私に何が出来るんだろう。お金もないからすぐに送ることもできない。声だけのお見舞いも偽善ぽいし、選挙目当ての議員みたいでいやらしい。そんなこと関係なく素直に勇気づけられればいいんだけれど困ったもんだ。思案のあげく、そうだ「カニを食べて元気を送ろう被災地へ!!」 こんなキャンペンはどうだ? あまり感心したものではないんだけれども、当店のカニは船主も気仙沼、船員も気仙沼、南三陸、陸前高田の出身者が多い。こんな時期にカニを食うなどぜいたくだと考えるだろうけれど、考えてみたまえ、船員達の家族は多くは被災しているはずだ。なのに帰るに帰れない。遠くアフリカの洋上で心配しながらカニを獲り続けねばならないのだ。

「当店のカニを食べること」その事は結果的にこの被災地や被災者を助けることなのだ。ま、そうなんだけど、それはともかくチャリティをやってみようと決心し、常連のお客さんや知り合いの方に来てもらって売上金を送ることにしよう。毎日の売上金ではこっちが被災者になってしまうから、1ケ月に1日だけその日を設定しよう。そんなわけで、4月24日(日)と5月29日(日)をその日に決めました。

 手始めに大学(早稲田)時代のサークルの仲間に相談したところ、さっそく先輩や後輩に連絡をつけてくれました。またたく間に両日とも満席(26席)になりました。実際のところ、大変驚きましたし、嬉しかったです。「早大ラテン・アメリカ協会」という名のサークルで「中南米を愛す」という、どっちかというと、ちゃらんぽらん系の集まりなのですが、驚くほど熱きものを見せてくれました。正直いって見直しました。ありがとう。!! そして、ありがとうございます。6月にも一度チャリティを催したいと思っています。どうか、ご趣旨をご理解の上、ご参加くださいますようお願い申しあげます。申し込みは当店まで。電話でお願します。6月25日(土) 午後6時? 会費¥7,000です。

   私は宮城県気仙沼市唐桑町に生まれ育ち、小学校中学校を過ごしました。生家は代々漁船・漁業を生業とし、かつを船、マグロ船、イカ船を所有し、更にインドネシアのエビ魚,南アフリカ沖のカニ漁もして参りましたが、30年ほど前に倒産いたしました。一家離散ののち、小生家族は横浜を居と定め、さまざまな経過の後、現在のカニのレストラン(ペスカドール)を始めるに至りました。
   ご存じのごとく、このカニは南アフリカのケープタウン沖、および隣国のナミビア沖で日本船がわずか2~3艘のみで漁獲している希少なカニです。これらの船主そして船員達はほとんどが気仙沼市、南三陸町、高田市、石巻市の出身者で今なお洋上にて操業を続けております。
    さらに私の小中学校の同級生だけでも100人程がこの被災地に住み、養殖業、加工業、漁船操業に従事し、糧を得ています。この度の大震災で多くの親戚、友人、知人、取引先が被災をし、目を覆うばかりです。
   大きな援助はできませんが、私も何らかの形で参加することを決意しました。チャリティの日の設定によるその日の売上の寄付もその援助の一つです。

  たまたま、愚息鈴木孔五郎、その妻鈴木綾が援助の一つとして育英資金の設立(東北関東大震災被災者青年支援奨学金基金)(http://members3.jcom.home.ne.jp/tohoku_earthquake_support/TES/Home.html)

を立ち上げました。志ある方々に是非ともご協力がいただけますことを願っています。

日本は実においしいカニガニが食べられる国だと思います。主なものに、タラバ、毛ガニ、越前ガニ(ズワイ)、これが3強だとは思いますが、毛ガニの小型の粟ガニ、ズワイに似ているベニズワイ、花咲ガニ、あさひガニ、ワタリガニ(ガザミ)、そしてズガニというか(川や浅水域でとれるモクズガニ)、上海ガニに似ているカニ。その他もろもろ。

『何が一番美味しいですか?』と聞かれたり、『何が一番好きですか?』と聞かれると意外に答えずらいものです。あなたはどうですか? 何故なら味というものは、味そのものは当然ですが、その他の要因でも、大きく変わるからです。嬉しい時、悲しい時、家族団欒の時、親友や恋人と一緒の時、いやな上司か嫌いな人との時、暑い時、寒い時、そんなさまざまな状況、心理状態がありますから、どんなに名店のものであっても、のどを通らなかったり、どんなに失敗作でも絶品と感じたり、そうでしょう。

 さらにカニの場合は難しい。もともとカニは安いものではないから、食べる機会が少ない。そして、良い物と悪い物の差も激しく、価格の差も格段にある。そうすると、あなたは、いや私もそうだが、一体うまいとか、まずいとか言ってみても、どのクラスのカニを食べたのか?それがよくわからない。そのカニを正当に評価できる舌か経験があるのか?そんなことを思うと、やはり、うかつには好きも嫌いも、うまいまずいも答えずらいのである。

 私は小さい頃、おやつは大ザル一杯に入った粟ガニ食べ放題という環境でした。だからカニはどんなカニでも旬の時季に丸ごと湯でたてが一番だと思っている。昨今は、魚屋も少なくなり、生で丸ごと一匹売っている店を見つけるのは難しくなった。そして、家庭でも大ナベを用意してゆでる機会は少なくなった。でも、やはり、どうか二人で一匹でいいから、ゆでて食べて欲しい。ところがところが、当店のカニは冷凍を解凍したものである。何故、そんなにゆでたてを賞しながら、私の店ではそういうものを扱わないのか?それにはいろいろ訳があるのですが、それは、おいおい述べることに致しましょう。

 ある時、スペイン人が当店に来られました。当店のカニを見て食べて興奮して言いました。『いやぁ、全く驚いた! 家に戻ったら、さっそくスペインにいる母と姉に電話をする』『日本でこのカニが食べられるんだぞうーー』と。

 スペイン人は本当にこのカニが大好きなんだと言ってました。やはり、高いんだそうです。それから、数年後、彼が彼の母と姉らしき人を伴って街を散歩しているのを見かけました。きっと、日本の企業に勤めている息子が、母と姉を招いたのでしょう。一瞬、声をかけようかと思いましたが止めました。彼にプレッシャーがかかると思ったからです。

 スペインでは、高いこのカニですが、日本で食べても高いことには変わりありません。彼にこのカニの名前を聞いたことがあります。『スペイン語でこのカニは何と呼ぶんだ?』 確か彼は『PATAS RUCIAS 』訳して、『ロシアの足』『何故、そう呼ぶんだ』と聞いたところ、『わからない』とのことでした。

 ロシア人の足は逃げ足が速くて、このカニと似ているとでも言うのでしょうか?それとも、ロシア人の女性の足はそんなにも魅力に満ちて勝ちあるもんなのでしょうか? それじゃ、食べてみたくなりますよね。誰か知っていたら教えてください。サービスしますよ!。

ずいぶん前になりますが、あるお客が言っていました。「このカニ、どこかで見たぞ!食ったぞ!そうそう、確かスペイン、スペインだよ1!」 そんな訳で、何年か前にスペインを旅行したとき、是非見てみたいと思って一番大きなデパートの地下食品階に直行しました。近海の魚や雑カニの中にこのカニは堂々と並んでいました。がしかし、その値段の高いこと高いこと。その当時、スペインの給与水準は日本の3分の1から5分の2程度だと思いましたが、売っている値段は驚くほど高いもので、とてもとてもこれじゃスペインの庶民には無理だなあという思いでした。

次の日、ベルセロナの市場にも行ってみました。なんとなんと、ここでも魚やのセニョリータが両手にこのカニをかざして、声を張り上げていました。しかし、その値段も驚くほど高いものでした。